メッセージ

2020年11月15日 聖書 コヘレト 11:1~6、ルカ 9:62 メッセージ「朝、種を蒔く」上地武牧師

 首里教会1回目の説教(8月23日の動画)は、私がキリスト者として大切にしていること、私の宣教の土台を話しましたので、第2回目の今日は、私が献身を決意したときのことを説教として伝えたいと思います。

 私の祖母は、戦前の読谷教会に通う、純粋・純朴なキリスト者でした。戦後は祖母の甥にあたる方(私からはおじさん)が、宣教師と知り合い、英語学習のつながりからやがてキリストを信じ、牧師になりました。
 祖母は甥が地元で開拓伝道をする、ということで、戦後は甥の奉仕する教会、十字架福音教会の礼拝に出席し、その教会を支えてきました。そして、私は、祖母の手にひかれて、幼稚園の頃から教会に通うようになりましたが、教会学校も行ったり行かなかったりの中途半端な生徒でした。それでも、祖母の純朴な祈る姿は、私の脳裏には焼き付けられ、〔目には見えないけど絶対なる方がおられる、だから、祖母はあのように全てを委ね、平安の中で過ごせるんだ〕と、その背中を見ていました。

 高校生の時には私も熱心に教会に通い、洗礼を受け、高校卒業後は、牧師になる道に進みたいと思うようになりましたが、家族からの反対で、断念しました。たまたま受けた銀行の就職試験に合格しましたので、銀行に就職することにしましたが、一方で、中学校の教員になりたいという希望もありました。そこで、沖国大の夜間部(2部の経済学部)に入学しましたが、銀行員と大学生の両立は続かず、銀行は1年半で辞めました。大学では教職課程も取得し、無事4年間で卒業。大学現役での教員採用試験は不合格でしたので、見聞を広げようと東京で就職浪人をしました。

 そのころの私は、教会から遠ざかっていました。高校から就職、大学への進路を悩む中で、教会生活が嫌になった事。そして、友人たちとの語り合いで、キリスト教が嫌になった事。そうした中でも遠藤周作の「沈黙」は、私の心にいつもキリスト教とは何かと、問いかける小説でした。カバン一つでヤマトへ出た私は、東京生活を満喫しながらも、東京の教会はどんなものかと、行ってみたくなりました。教会バザーの折込チラシを見て、日本基督教団王子教会へ。数カ月後には、その教会に通う身になっていました。そしてある日、その教会の会員から、献身のことを尋ねられたのです。最初は否定的に考えていましたが、いつしかそれも私の歩む道かもしれないと思うようになり、そうした時に示されたのが、今日の聖書です。

 コヘレトの言葉11章1節~
《あなたのパンを水に浮かべて流すが良い。月日がたってから、それを見い出すだろう。・・・
 朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか。
 それとも両方なのか、分からないのだから。・・・》

 1節では、「報いを期待しないで、善行を積みなさい」と解釈できるし、4節では、「農民には天候が重要であるが、細かい事までいちいち気にしていたら仕事ができない」とも読み取れます。人間の無力さを強調するために天候に言及しています。それは、沖縄の言葉に換言すると、やれることさえやれば、あとは「なんくるないさ」です。5節も人間が何でも知っているかのように振る舞うことへの忠告です。そうした文脈で6節まで進みますと、
《朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか。それとも両方なのか、分からないのだから。》と記します。

 聖書の言葉は、〔あなたの人生において、種は何? あなたが育てたい種は? 伝えたい種は? あなたの朝はいつ? 夜はいつ? 〕と迫る気がしました。
 私は、高校生の頃、福音の種蒔きをしたいと願いましたが、それは、私の晩年で良いと考え直していました。けれども、聖書には《朝、種を蒔け》との言葉がある、と気づかされました。でも、それは、自分に都合よく、聖書を解釈しているんではないか、とも思いました。また、高校卒業前、銀行に就職する私に語った恩師の言葉、「君はインスタント人間になってはいけない。味の煮込まれた、栄養のある人間になれ。」との言葉も想い起しました。
 悩む中で、福音書を読んでいますと、《鋤を手にかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない》との言葉が胸に刺さりました。
 お前が本当に、主の弟子として歩みたいという覚悟をするのなら、もう後ろは振り向くな、主を信じて前に踏み出しなさい、との言葉が示されたのです。この言葉が示された時、私は、主の導きを信じ、委ねて、自分を煮込んでいこうと、決心しました。そしてちょうどその時、キリスト者であった祖母の死が伝えられ、葬儀に参列した私は、祖母の遺骨を抱きながら、〔おばぁ、俺は牧師になる。東京戻ったら、神学校を目指す〕と語りました。それが、私の献身に至る経緯です。

 神は、私たち人間の知恵や知識、願い、祈りを超えて、一人一人の人生を一番良き道へと導いてくださいます。どんなにしんどくても、どんなに悩みの中にあっても、神は、それぞれの人生で、朝に、昼に、夕に、そして夜も、私たちを見守ってくださる方です。
 私は沖縄でもヤマトの生活でも、神の導きの中で、ここまで生かされてきたことを、心から感謝しています。その神に出会えて、良かったと思います。人間、やることをやっていれば、あとはなんとかなるものです。神は見ておられ、知っておられます。私たちの生き方を。
 だから、今日も、「朝、種を蒔く」のです。あとは、神に委ねる。その一日、一日の連続が、日々、平安に生きる秘訣となります。
 お祈りします。